君は「野良イス」を知っているか? イヌではない。ベンチでもない。単純に捨てられたイスでもない。ましては“野良イヌ”ではなく、野良イスである。バス停などに置かれている、室内用のイスに魅了され、野良イスと命名したMr.Tsubakingに前後編に渡って野良イスを語り尽くしていただく。

 

前編では、私の野良イス愛を語らせてもらいました。しかし、SNSやメディアで野良イスについて発信するにつけ、「ただの捨てられたイスだろ」「不法投棄されているもので排除すべき」という声も返ってきます。

そこで今回は、社会における野良イスの位置づけの話からいたしましょう。

 

不法投棄か優しさか

まず「不要となって捨てられた」のか「優しさで持ってこられたのか」という点。ここについては、二極に分けて考えることが難しい部分です。
なぜなら、置いた人の「思い」は本人に聞くしかないため。
また、野良イスの様子から見ると、「うちでは不要になったし、誰かのためになるならバス停で使ってもらおうか」という、二極の中間的な意図でそこに持ってこられたように見えるものが圧倒的に多いのです。

実際に、野良イスを利用している高齢者からの声が目に見える形で広まったケースも。数年前、渋谷区のバス停に置かれていた野良イスに、行政が撤去する旨の張り紙をしました。
後日、張り紙の隅に「80歳の私に、バスを待つ間使わせてください」という張り紙が貼られていたのです。

こんなエピソードからも「単に捨てられただけ」と一蹴することはできないでしょう。

 

進むも地獄戻るも地獄

では、法的ではどのように位置付けられるのでしょう。

確かに、野良イスは違法の存在です。
詳しく言うと「廃棄物の処理および清掃に関する法律」によって規定された、分別、運搬、処理方法に反して捨て、放置する行為として「不法投棄」に該当する可能性が高いとされます。
さらに、「道路法第32条」でも、公共の場所である歩道やバス停に、個人が物を置くことはで禁じられており、こちらにも抵触する可能性があります。
確かに、歩道の狭い場所などに野良イスがあると、車イスや目の不自由な方の障害になってしまうことがあるかもしれません。

では、野良イスを見つけた人はすぐに撤去してしまえばいいのではないか。とも思えますが、そうもいかない事情があります。

それは、違法であるからといって勝手に撤去するのも、刑法第254条「遺失物等横領罪(占有離脱物横領罪)」に抵触する可能性があり、こちらもまた法に触れてしまいます。
つまり、法律の側面から見れば野良イスは、置かれた時点で違法な存在であり、それを個人が動かしたり撤去したりするのも違法。進むも地獄戻るも地獄な存在なのです。
また、行政が手を下す場合にも、一定期間の告知の上さらに警告までしてからでないと撤去できないという、煩雑な手続きがあるためなかなか撤去もされません。

違法なものを奨励・礼賛するつもりはありませんが、健気に見える野良イスたちは、こんなにもがんじがらめな中で頑張ってくれていると考えると哀愁を感じずにはいられません。

なお、先述した渋谷区の野良イスは撤去されましたが、80歳の方の声が届いたのか、すぐに正規のイスが設置されるという、円満な結末を迎えました。

 

野良イスは東京特有の文化?

野良イス遠征をして気がついたことがひとつありました。
「野良イスは東京特有の文化かもしれない」ということです。1泊2日で静岡県内を350キロほど走りましたが、見つけられた野良イスはなんとふたつのみだったからです。

 

1泊2日静岡での唯一の捕獲

 

また、地元福岡へ帰省した際にも野良イスを探してみましたが、東京に比べて極端に見つけられないのです。

さらに、あるイベントで野良イスグッズを販売しに大阪に出かけた際。お客さんに「野良イスって何ですか?」と尋ねられ、「バス停などに置いてある、誰かが持ってきた室内用のイスです」と答えました。
それに対し、東京では「あ~よく見ますよね!」いうリアクションがほとんどですが、大阪の方は「そんなんがあるんや」的な反応。

こうしたことからも、やはり「野良イスは東京特有」と考えることができるでしょう。

 


行政による告知

 

では、なぜ野良イスは(ほぼ)東京にしかないのでしょうか。

私が生まれたのは、福岡県の最南端、大牟田市という町です。かつては炭鉱があり、石炭産業を中心に賑わったものの、閉山してからは人口も減少している田舎町。

幼少期のことを思い出してみると、大牟田市にあった祖父母の家には、最寄りのバス停の時刻表が貼ってあり、バスで出かける際はその時刻を目指して家を出ていました。なので、バス停でバスを待つという時間は非常に短いのです。
数時間に1本という少ない本数しかバスが運行しない街では、これが当たり前だと思われます。

 

数少ない大牟田市の野良イス

 

一方、東京では1時間に何本もバスがやってくるので、時間を調べずにとりあえずバス停に行く事も多いのではないでしょうか。そして結果的に10分程度の待ち時間が発生するなんてこともしばしば。
意外にも、バスの本数が多い東京の方が待ち時間が発生するから、野良イスが多いのではないかというのが仮説のひとつです。

 

投棄ではない証拠にチェーン

 

また、地方と東京を比べると歩道の広さが違います。地方ならば、バス会社や行政が野良ではない公式のイスを設置できるのですが、東京の狭い歩道ではそれがなかなか叶いません。
さらに、日本人の約10分の1が暮らす東京では、公式のイスが設置できてもそれだけでは足りないという状態が発生しているのです。
その隙間を埋めるように現れてきたのが、野良イスなのではないかというのが、ふたつめの仮説です。

 

好きなものを好きでい続けるために

あんなに好きだったものが、いつの間にか興味を持てなくなっていたという経験は多くの方がお持ちだと思います。
音楽やマンガ・スポーツなど、他人とワクワクや喜びを共有できるようなコンテンツでさえも、いつの間にか心が離れちゃう現象が起きるのですから、他にほとんど興味を持つような人もいない「野良イス」のようなものはなおさら。

当然、私も野良イス集めに飽きてきた時期がありました。しかし、なんとなく野良イスから本当に離れてしまうのは寂しいとも思っていた頃、みうらじゅん氏がこんなことを言っていたのです。

「好きという感情が『向こうからやってくる』というイメージは若い頃だけ。こっちから好きにならないと。そして、自分を追い込める努力がないと」(筆者意訳)

これを聞いて私は「野良イスを探す旅に出てみよう」と考えました。そして、車に乗り1泊2日で静岡県を一周する旅に出たのです。

これまで、散歩や移動のついでだった野良イス探しを目的化して、時間とお金をかけるという、ある意味、馬鹿馬鹿しい行動だと自覚はしています。

しかし、その旅から帰ってみると、少し冷めかけていた私の野良イスへの思いは見事に再燃。
さらに、「僕が野良イスを集めて発信しなくなったら、この概念自体が忘れられる」という、おかしな責任感まで湧いてきました。

野良イスへの思いが、恋から愛に変わった瞬間かもしれません。

 

野良イスを発信し続けて

私が野良イスという概念を見つけて7~8年。その健気さは当初も今も変わらず、心を掴み続けています。変化したポイントとは、久しぶりに訪れる街へ行くと「あの野良イス、まだ居るかな」と見に行くようになりました。
そして、別の野良イスに変わっていると寂しさと同時にしっかり受け継がれている嬉しさも感じるように。
野良イスを見つけた瞬間の「点」から、野良イスの経過である「線」で愛でるようになって来ています。


私がこんなにずっと野良イスを求め続ける理由は、そんな野良イス自体の魅力が第一なのはもちろんです。
しかし、世間的に広く知られる存在ではない「野良イス」という概念は、まだ私が探して発信し続けなければ失われてしまう気もしています。そんな儚さもあり、「私が好きでいてあげなきゃ」という思いもあるかもしれません。

野良イスならぬ野良ソファー

私は昨年、約17年の東京暮らしから地元福岡に帰りました。現在、野良イス不足の日々を送っており、福岡で希少な野良イスを発見すると、これまで以上に小躍りするような喜びにかられながら暮らしています。