日本の洋食とは?歴史や代表メニューなど基礎知識

ハンバーグ

本格的なレストランで味わうこともあれば、家庭料理でもおなじみ。さらに、お手軽なコンビニ弁当や冷凍食品にまで、さまざまなシーンに浸透している「洋食」。伝統的な日本料理を示す「和食」の対義語でありながら、洋食もまた日本ならではの発展を遂げた料理ジャンルです。その歴史や代表的なメニューなど、基礎知識を見ていきましょう。

 

そもそも洋食とは?

「洋食」とは、日本で独自に発展した西洋風の料理のこと。もともとは、明治時代に伝わった西洋料理を食生活に取り入れる際に、日本人本来の主食である「ごはん」に合う惣菜としてアレンジしたものがはじまりです。

現代に至るその進化ぶりは、海外からの観光客が日本でわざわざ洋食を楽しむこともあるほど。日本でしか味わえないメニューが多いものの、伝統的な和食とは明確に区別されているのが面白いところです。

広義では、「洋食=西洋料理から西洋風の料理全般」とするケースも。「パンと合うのが西洋料理、米飯と合うのが洋食」という考え方もあります。よく、シチューに合わせる主食について「パン派VSごはん派」の論争が見られますが、正解がないものこそ洋食なのかもしれません。

 

洋食屋とは?西洋料理店とはどう違う?

「洋食屋」ときくと、洋食を出す定食屋が思い浮かぶ方が多いのではないでしょうか。洗練されたレストランではなく、銀座や浅草、そして下町などに昔からあり、ガヤガヤしているレトロなお店です。

実際、洋食屋には家族経営などアットホームな雰囲気のお店が多く、いずれも日本人向けにアレンジされたメニューが定着しています。洋食屋のシェフについて、「どの国で修業した本格派か」を気にする人はナンセンス。誰でも気軽に足を運べるのが洋食屋というわけです。

一方で「西洋料理店」の形態は、レストランやビストロ、カフェテリアなどさまざま。総務省においては、「欧米諸国の料理を、その場所で飲食させる事業所」と定義されているそう。つまり、フレンチやイタリアンをはじめ、ロシア料理やスペイン料理、メキシコ料理といった本場の料理を味わえる場所ですね。

 

日本における洋食の歴史の始まりと広がり

洋食(西洋料理)が日本史に登場するのは16世紀。鉄砲やキリスト教の伝来とともに、種子島にパンが伝わりました。織田信長による南蛮貿易が始まったことで、九州では一足先に南蛮料理が発展していきます。

日本の食に西洋文化が混ざりだしたのは、文明開化以降のこと。幕末に開かれた横浜・神戸・長崎・新潟・函館といった外国人居留地に、外国人向けの西洋料理店が置かれました。それらの店で学んだ日本の料理人たちが、やがて全国に洋食を広めていくことになります。

明治期の西洋料理は、ごく一部の富裕層だけが味わえた高級品。外交上の公式料理とされたフランス料理が中心でした。そんな状況下で、料理人たちは西洋料理に日本の食材を用いたり、日本人の口に合うものにしたりと試行錯誤。日本人に根付いていた肉食への抵抗感も薄まっていき、1897年(明治30年)には「和洋折衷料理」という言葉が流行しました。東京の洋食店はゆうに1,500店を数えたのだそうです。

 

大正 から昭和にかけての洋食と洋食店の広がり

明治中期に銀座「煉瓦亭」が開発した「ポークカツレツ」などを皮切りに、大正時代から昭和の戦前期にかけて、日本的な洋食が進化していきます。庶民の憧れだった西洋料理は身近な洋食となり、大衆向けの洋食店も登場。特に、現代でも洋食の定番である「カレーライス」「コロッケ」「とんかつライス」が三大洋食として大流行しました。

とはいえ、現代の洋食店やファミリーレストランのように、店内でゆっくりと味わう洋食が急速に広まったわけではなく……。明治後期の相場は、かけそば約2銭に対してカツレツが5~7銭ほど。やはり洋食は贅沢なものでした。

そうした背景から、洋食店の残飯を屋台で提供する「一品洋食」など、貧富の差を利用した洋食ビジネスが誕生。幅広い階層の人々が口にするようになったことで、洋食は広く親しまれていきました。

 

日本的な洋食の代表メニューといえば?

洋食といえば、カレーライスにハヤシライス、コロッケやエビフライなどの揚げ物、オムライス、ナポリタン……と、挙げればキリがありません。なかでも、「カレーライス」「コロッケ」「とんかつ」は日本の三大洋食として不動の地位にあります。

「カレーライス」は、イギリス生まれのシチューから実はヒントを得た料理。そのシチューと植民地としていたインドの香辛料を合わせて生まれたイギリスオリジナルなので、インドのカレーとは別物。歴史は複雑ですが、近年では日本の欧風カレーを好むインド人の方も珍しくないとか。

「コロッケ」はフランス料理の「クロケット」をアレンジしたものですが、調理法の違いから日本独自の食べ物として世界で認識されています。

「とんかつ」の前身は、薄切り肉にパン粉などの衣をつけて揚げたカツレツ料理。カツレツの世界は奥深く、関東・東北地方では豚肉、関西では牛肉が主に使用されます。

 

洋食屋が今も愛される理由

洋食は一般家庭で作れるレシピも多く、子どもの好物にはあらゆるメニューがランクインします。身近で大好きな料理だからこそ、大人になっても食べ続ける。思い出の店や憧れの老舗、舌に馴染んだ味がある。

ふわとろ玉子じゃなくて、シンプルなオムライスにトマトケチャップがかかっているのがいい。お皿から少し溢れたグラタンや口の周りが真っ赤になるナポリタン、何味かわからないソースが染みたあの店のカツレツが食べたい。堅苦しい能書きも産地表記も不要で、素朴で素直なおいしさをサクッと堪能したいだけ。

そんな人々に求められ続けていることが、洋食屋が時代を問わず愛される理由なのではないでしょうか。日本各地で発展した洋食には、それぞれに人や店舗のストーリーがあり、そこを掘り下げていくとまた愛着がわくものです。

日本初の洋食店はどこ?

上野精養軒

洋食の老舗や名店は全国に数多くありますが、「日本初」の西洋料理店や洋食店として挙げられるお店はまた特別な存在です。ピックアップして、各店の特徴を紹介します。

 

【長崎】良林亭

日本初の西洋料理専門店として有名なのが、長崎にある「良林亭(りょうりんてい)」です。始まりは江戸時代末期の1863年。開業者の草野丈吉さんは、長崎・出島(でじま)のオランダ商館で働きつつ、西洋料理を体得した人物です。

長崎奉行所に勤める役人などに親しまれた良林亭は、連日大盛況で外国人の接待にも便利だったとか。「自遊亭」「自由亭」と名前を変えながら、丈吉さんがこの世を去る1887年(明治20年)まで営業。

現在は、「旧自由亭」としてグラバー園内に移築復元されています。歴史ある西洋建築はレトロ感たっぷり。優雅な応接室は喫茶室へと生まれ変わり、長崎ゆかりのダッチコーヒーなどを味わえます。

 

【東京】上野精養軒

上野恩賜公園内にある老舗洋食店。1872年(明治5年)、西洋料理を提供するホテル・レストランとして築地に「西洋館ホテル」が開業。「精養軒ホテル(築地精養軒)」への改称を経て、明治9年に支店「上野精養軒」が誕生しました。

現在も営業している上野精養軒は、日本におけるフランス料理店の草分け的存在。また、日本最古の西洋料理店にも数えられています。華やかな鹿鳴館時代には社交の場となり、各界の名士たちが集ったそう。

館内には、本格フレンチが味わえる高級店「グリルフクシマ」と、カジュアルに楽しめる「レストラン(洋食)」の2店舗があります。ニーズに合わせて選べるのがうれしいところ。カレーやハヤシなど、レトルトメニューの通販も満足度◎。

 

【東京】煉瓦亭

日本の洋食の歴史を語るにあたって、1895年(明治28年)創業の東京・銀座「煉瓦亭」の存在は欠かせません。西洋料理のビーフコートレットを応用して、日本仕様のポークカツレツを考案した洋食店です。

ポークカツレツの大ヒット後、エビフライ、白身魚のフライ、カキフライといったメニューを次々と開発。揚げ物好きは足を向けて寝られないというか、一度は足を運んでみたい名店でしょう。

ハヤシライスやオムライスなど、洋食の定番メニューも「煉瓦亭」で生まれました。現在でも開店前から行列ができ、ランチタイムに客足が途切れることはなし。食通だった作家、池波正太郎先生が通ったレストランとしても有名です。「元祖ポークカツレツ」をはじめ、昔から変わらない味と明治レトロな店内がたまりません。

浅草の洋食屋の歴史と愛され洋食店

飲食店の入口

東京の今昔を一度に体感できるスポット・浅草。風情ある老舗から気軽な食べ歩きまで、数えきれないほどグルメがあるなかで、多くの人に選ばれているのが昔ながらの洋食屋です。

浅草で愛され続ける洋食屋には、どんな歴史や伝統、人気メニューがあるのか。その魅力を知ってください!

 

浅草にはなぜ人気の洋食屋が多いのか

地元では「観音さま」の名で大切にされてきた浅草寺。江戸初期から参拝客でにぎわった浅草には、吉原遊郭(新吉原)が誕生し、芝居・映画・オペラなどのエンタメも集いました。俗っぽいものをひとまとめにしたかった政府の思惑とは裏腹に、「最新」に出会える庶民の娯楽街として発展します。

しかし、1923年(大正12年)の関東大震災と、第二次世界大戦末期の東京大空襲によって2度も焼け野原に。浅草の人々は、そのたびに「観音さまあっての浅草」を建て直してきました。終戦直後に闇市と化した上野や浅草は、新しい商売や店の仕切り直しにはうってつけの場所。戦後生まれの洋食屋は、今では老舗の名店です。

また戦前までは、肉や卵が超貴重な食材で、これらを使った洋食は極めて高価なものでした。「花の東京」とうたわれる浅草で洋食をいただくことは、庶民にとって大きな憧れ。復興を超えて経済成長した日本において、憧れは届かぬ夢ではなくなり、「ハレの日」のご馳走となったのです。

ここからは浅草で今も愛される老舗の店舗を紹介します。

 

数々のメディアで注目「グリル グランド(grill GRAND)」

看板メニューは、特製オムライスとカニクリームコロッケ。『情熱大陸』やマツコ・デラックスさんの『夜の巷を徘徊する』など、多くのメディアでも紹介されてきた浅草の老舗洋食店です。1941年創業で、現在のシェフは3代目。モットーは「変えているけど 変わらない味」と、ファンを裏切りません。

店を構える浅草寺本堂の裏手は、通称「観音裏」。かつて花街として栄えたエリアです。その面影は今も色濃く、芸妓衆にも愛された「下町の洋食屋」で食事できる感動も味わえます。

 

昭和から続く洋食店が豊富な浅草

ご紹介した2店舗以外にも名店はまだまだあります。

「グリル グランド」同様、観音裏にある「グリル 佐久良」は1967年(昭和42年)創業。1932年(昭和7年)創業の「洋食カツレツ リスボン」は浅草六区にあり、一帯は日本初&最大手のストリップ劇場「浅草ロック座」を中心とした浅草随一の遊び場でした。

 

ほかにも、浅草には昭和から続く名店が多数。

 1936年(昭和11年)創業「ぱいち」

 1950年(昭和25年)創業「モンブラン」

 1973年(昭和48年)創業「ロッジ赤石」

その立地は当時の花街や商店街など、賑わいの中心だったことも、浅草に洋食屋が多い理由だと考えられます。

洋食を愛する人々の熱い想いを冷まさずに味わって

こんなに愛される洋食店がある浅草ですが、残念ながらここ数年はコロナ禍の影響もあり、老舗の閉店(シチューの店フジキッチン、レストラン吾妻、ステーキハウスのぶ等)が続いているようです。

百年以上前から代々洋食を作り、食べて、洋食を偏愛してきた人々の思い入れの深さ。そこに魅力を感じた人は、ぜひ熱い思いを絶やさないためにも足を運んでみてください。