秦レンナ

ライター・編集者。選書、文筆、zineの発行なども行っている。

 

飯嶋藍子

フリーエディター / ライター。1990年生まれ。北海道帯広市出身。学生時代から音楽、美容、ライフスタイルなどの分野で編集業務に携わる。ロッキング・オン・ジャパン、CINRA.NETでの勤務を経て、2017年夏に独立。人生最大のイベントはグレイトフルデッド復活ライブと、オーストラリアでの皆既日食観測。自然と動物をこよなく愛するキャンパーです。

 

吉田薫

編集者。株式会社ロッキング・オンで月刊誌『CUT』の営業・編集経てCINRA入社。最近はヨガにハマっている。

 

石澤萌

1992年生まれ、東京都出身。総合広告代理店での営業を経て2018年にCINRA入社し、「CINRA.NET」「Fika」等で編集やプランニングを担当。2021年春からフリーランスに転身予定。旅とカレーとサウナによってなんとか生きている。

“なんとかやっていく”ための日記 / 秦レンナ

喪失を乗り越えるために必要なのは、物語ることーー。これは、アメリカのアーティスト、ローリー・アンダーソンが監督・脚本を務めたドキュメンタリー映画『ハート・オブ・ドッグ』の中で語られる言葉だ。愛犬の死や夫、ルー・リードとの別れ、幼い頃の記憶、母への複雑な想い……自身の喪失と哀しみの数々を物語ることで、彼女は自分の過去を受け入れ、そして“なんとかやっていこう”とする。

私は思った。きっとこんなふうに、世界中にあふれる哀しみや痛みというものは、何度もなんども折り合いをつけ続けられてきたのだろうと。そして私もまた、書くことで、物語ることで、“なんとかやっている”ような気がするのだ。

 

私は14歳の頃から日記を書き続けている。だけど、昨年末、引越しを機会にその大半を処分してしまった。

ゴミ袋に入れる前にやっぱり何冊かを読み返し、片付けは全然進まないということになったのだけど、私は不思議な気持ちに浸っていた。自分で書いたものなのにまったく覚えていないこともあれば、昨日のことのように思い出せることもある。それは“なつかしい”とはちがう感情だった。

出版社で働いていた日々のこと。夢と現実のギャップに打ちのめされ、自分の何にもできなさに絶望したこと。それからまったくご飯を食べられなくなり、ついには休職する羽目になったこと。あの頃、生理が半年間もきていなかった。平日の昼間、家の天井をぼーっと見つめながら、「私はちっとも強くなんかないんだ」と理解したときの惨めな気持ち。お金もなくて、すごく心細かった。それから、結婚とか、浮気とか、退職とか、離婚とか。すごくいろんなことがあった。

 

日記には、叫びみたいな言葉がかき殴られていたり、どん底に落ちてしまっていたり、急に元気になったりする様子が記されていて、ああ、人間ってこんなふうにもがいて生きているんだと、自分のことながら可笑しくなった。

どんなことが起こっても日々は続く。私は結局、何か食べたり仕事をしたりお風呂に入ったり本を読んだりしながら、合間にこうして日記を書き、なんとかやってきたのだった。

 

捨てた日記と捨てなかった日記の違い。それは“折り合いがつけられているかどうか”だった。そこに書き綴ってある思いや哀しみと今の自分が折り合いをつけられているのであれば、もう大丈夫。そんな気がした。きっともう読み返す必要もない、と。

思うに、喪失や哀しみや痛みというものは完全に消えたりはしない。自分の中にずっと携えられているものなのだ。そしてそれらはたぶん、優しさとか寛大さに変わる。

 

私は日記を書くことで、自分の痛い部分や腑に落ちていない部分に向き合い、ゆっくりとでも前に向かおうとしているのだと思う。そしていつか、優しくなりたいし、寛大にもなりたい。

最近は、起きてからすぐノートを開くようになった。考えごとをするなら朝がいいと聞いたから。それは本当に正解で、引っ越した先の逗子の家のさんさんと太陽の光が降り注ぐ窓辺で考えごとをする時間はすごく素敵だ。テーブルの上の紅茶の湯気が、白くきらきらとのぼっていく様子を眺めながら、私はすごく満ち足りた気持ちになってしまう。しかもそうしていると、書くべき言葉がぜんぜん浮かんでこない。でもきっとそれでいい。はっきり言って今は、日記を書くのをやめてもいいかもと思っている。

 

日常に、運命のきらめきを / 飯嶋藍子

 オラクルカードとは、神託が書かれたカードのこと。神託というと仰々しいけれど、その絵柄やちょっとしたメッセージを読み取るという感覚的な占いで、まずはただただ1枚カードをひけばいい。勉強せずともすぐに実践できる手軽さは飽きっぽい私になんのプレッシャーも与えない。それでいて、おみくじをつまみあげた感触やフォーチュンクッキーをかじった歯ざわりのような、ささやかな高揚感をもたらしてくれるし、実際オラクルカードのメッセージはちょっとそれらに似ていたりもする。

 

Photo by N A ï V E

動物の絵柄に惹かれてカードを入手した時に、占いに明るい知人が「『今日は何に気をつけたらいいか?』『今日を心地よく過ごすには?』とカードをひくと、メッセージを読む練習になる」と教えてくれ、ひとまず朝にカードを引いてみることにした。

 

コロナ禍で仕事が少なくなり、ごくごく狭い家で一日が終始していた時期。人とも会わず、景色も変わらず、まるで自分が硬直してしまったような生活のなかで、オラクルカードは少しだけ安らぎを与えてくれるものだった。私が私のためにひく1枚のカード。偶然出てきた1枚かもしれないけれど、うだつのあがらない反復の日々に、物語と意味を与えることを許してくれたような気がした。

 

たとえば今日引いたカードはコアラだった。ユーカリの木の間をゆったりと動くコアラが教えてくれるのは、「私たちが必要なものはすでに与えられていて、その豊かさを楽しめば日常生活にも喜びを見出せる」ということ。出てくる頻度の高い馬のカードは、「もっといい状況を自由に選べる、そのためには何もコントロールしようとしないこと」というアドバイスをくれる。

Photo by N A ï V E

生活の営みの一つひとつに大きな意味などなくてもいいと思う。ただ健やかにいるだけで上出来だ。しかし、同時に、この家のなかでの一呼吸は、部屋を行き来するだけの足取りは、一体どこに繋がっているのだろう?と、世界がしゅんとしぼんでいくような不安が押し寄せてくることもある。

 

オラクルカードのアドバイスに気をつけて暮らすと、こぢんまりとした生活のなかでも何かを成し遂げた満足感がじんわりと広がるし、そこに新しい世界や感覚が隠れていることに気づかされる。未来を予言するような力はない。でも、プラクティカルすぎる日常にすっと現れる運命めいた言葉のきらめきは、縮んだ世界と私の心にすっと風を通し、もやもやとした黒い影を連れ去ってくれている。

 

欲しいのは成果じゃなくて没頭だと気づいた日 / 吉田薫

 流行りものは何でも試してみたくなる性質である。コロナで瞑想が再び注目を集めるようになってからというもの、瞑想アプリをダウンロードしてみたり、Netflixの『ヘッドスペースの瞑想ガイド』を見てみたりと自分なりに瞑想にチャレンジしていた。「Medicha(メディーチャ)」の存在を知ったのはそんなときで、「いつ行こうかな。来月には行きたいな」とタイミングを決めかねていたら、この度、運よく体験取材をさせていただけることになったのだ。

 

「Medicha」とは、東京の南青山にあるメディテーション体験スタジオ。1回80分で、「My Core:前向きな気分に整えたいとき」「Clear:思考や感情を整理したいとき」などの6つのコースから、自分の気分に合わせて選んだプログラムを体験することができる。私は、スタッフの方曰く「男性やビジネスパーソンが選ぶことが多い」という「Visualize:目標を決めて気分を高めたいとき」を選択した。何かを達成したいという向上心があったわけではなく、「自分にとっての目標って何だろう」と単純に気になったからだった。

 

「Medicha」のメディテーションは、音声の案内にそって行う「ガイダンスメディテーション」という方法を採用している。「体が沈んでいくのを感じて」といった声に耳を傾け瞑想を深めるにつれ、指先や足先がポカポカして、頭のなかではスライドショーみたいに映像が浮かんでは消えるようになっていった。昔飼っていたミニチュアダックスフンドや、高校の後夜祭のキャンプファイヤー、結婚式の衣装合わせでふざけ倒す夫……。「なぜこのイメージなのか」と考えそうになったが、「ただイメージを受け止めてください」という声で思考を止め、ふわふわと映像のなかを漂うような、不思議な感覚がしばらく続いた。

 

そして、体験の終盤、頭のなかに突然わっと急に浮かんできたのが「神社」の映像だ。古くて小さいその神社は、中学3年生の1年間、毎日お参りをしていた神社である。どうしても行きたい高校があり、勉強するだけでは不安で、「毎日欠かさずお参りしたら受かる」とけっこう本気で願掛けをしていたのだ。結局メディテーションが終わるまで、この「神社」の映像が絶え間なく頭のなかで流れ続け、私の「目標」のイメージは「神社」や「神社に通い続けた自分」になってしまった。もっとこう、部活で成績を残したときとか、高校の文化祭で青春した日々とか、キラキラしたものが浮かぶだろうと思っていたのに、予想外の地味さである。思わず笑ってしまったが、自分らしい結果だとも思った。

 

成果・成功には興味がなくて、過程が濃く面白いことのほうが大事――毎日、成長や結果を求められる日々のなかで忘れていたが、私は元来そういう人間だったのである。そう思い至ったとき、絶対ブレない指針を手に入れたような、すごい安心感があった。「何かに迷ってもいったんここに立ち戻れば大丈夫」。とても大事で優しいお守りを手に入れた、不思議で幸福な瞑想体験だった。

 

竹のアーチが印象的な瞑想の部屋。写真は、一緒に体験をした会社の先輩のRさん。体験後は、「もやもやとしていたことが整理できた」とのこと

服も、誰かの目線も脱ぎ捨てて / 石澤萌

サウナに通うようになったのは1年半ほど前のこと。理由は「肩こりによさそうだから」で、サウナブーム黎明期から通う人から見たら後発のビギナーだろうし、毎週かならず行く! ということもない。「行けるときに、過ごせるだけの時間で」をマイルールにしていて「ととのう」ことにも特別こだわっていないので、なんとなくサウナーとは自称しづらい。

京都のサウナ「サウナの梅湯」2階にある休憩スペースにて

実は「サウナ界のルール」のようなものがあまり好きではない。「ととのう」ためにはサウナ→水風呂→休憩を3セット繰り返す必要と、それぞれのステップごとに滞在時間の基準があるらしい。紹介しているWebサイトや人によってまちまちだが、サウナは1回あたり10分、水風呂は2分、休憩は10分、などと言われることが多い。ほかにも、サウナの温度は何度以上、水風呂は何度以下というものや、本気でととのうためには水質も重要だと言われている(サウナーの聖地と名高い静岡県のサウナ施設「しきじ」は、なによりその水質がバツグンらしい)。

 

でも、私はもともと暑がりだ。湿度が低く温度が高い日本式ドライサウナで10分も過ごすのは苦痛だし、冷たすぎる水風呂には今でも慣れない。ルールを守ろうと頑張ってみたものの自分の身体には合わず、心身の癒しを求めて来ているはずなのになぜ我慢大会みたいなことを……と、ちっともすっきりせず、おきまりのように牛乳だけ飲んで帰ったこともあった。

自分なりの楽しみ方を見つけたのは、本当にここ1年くらいだ。「サウナ行くならととのわなければ!」と、意固地になっていた感情を思い切って捨ててみたら道がひらけて、気楽に楽しめるようになった。よく、「サウナは服も肩書きも脱ぎ捨てて、何者でもない『人間』に戻れることが魅力」と聞くが、ルールに固執して、目に見えない誰かの言葉や目線ばかり気にしていたら、裸になった意味がない。

 

暑がりなのも私。水風呂がちょっと苦手なのも私。だから、今日は2セットだけでやめておこう。水風呂も30秒でもじゅうぶんだし、休憩はもうすこし長めに取りたい。私が私であることを受け入れてみたら、サウナの楽しみも拡張された。それに、その時々の体調や心のあり様に合わせて心地よさをはかる行為は、普段はつい蔑ろにしてしまう自分自身をていねいに愛でる感覚になれる。

 

社会で日々を過ごすと、いつのまにか自分のことがわからなくなってくる。肩書きやタスク、社会にどんなふうに見られているのかという不安だけ無限に積み重ねられていって、誰のために、なんのために行動しているのか迷子になってしまう。

 

私にとってサウナは、そういう迷子の状態に「こっちだよ」と道をつくる手段のひとつだ。サウナを誰かにものすごくすすめたいわけじゃない。自分の輪郭を描き直す方法は人それぞれなのだから。でもひとつだけ言えるのは、「こうあるべき」にとらわれず、自分を自分で大事にする方法を持っているほうが、人生はきっと楽(しい)だと思う。

Edit by 石澤萌(CINRA)