石井ゆかり

ライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆。2000年に星占いサイト「筋トレ」をスタート。「石井ゆかりの星読み」、LINE公式アカウントでの毎日の占い配信などwebコンテンツの他、著書多数。2010年刊行の『12星座』シリーズは120万部を超えるベストセラーに。

占いは「占いを読んでいる、今ここにいる自分」が主人公

私が星占いの記事を書き始めたのは、もう20年も前になります。当時から「意味が分からない」「抽象的」などと言われてきました。その一方で、「元気が出る」「癒される」などのご感想をいただくこともあります。占いに限らず、どんな文章もそうですが、読み手によって、合う・合わないということがあるのだと思います。

ただ、小説やエッセイと違い、占いは「合う・合わない」以上のものもあるのかもしれません。というのも、占いに書いてあるのは、読み手自身のことだからです。小説やエッセイのように、自分以外の誰かの、どこか遠い場所での話ではないのです。

2000年にスタートした石井ゆかりの星占いサイト「筋トレ」。

占いは、読み手にとって「占いを読んでいる、今ここにいる自分」が主人公です。それが「デタラメ」に見えるか、あるいは「大切な意味を持った言葉」に見えるかは、ある意味、書き手には「コントロール不能」です。投げっぱなし、読み手任せです。読み手に甘えている、と言ってもいいかもしれません。

他の書き手はどうかわかりませんが、少なくとも私自身は、読み手に甘えている部分が大きいということを自覚しています。読み手に対し「申し訳ない」という罪悪感、そして「よろしくね」という祈るような思いを同時に抱えながら、日々、占いを書いています。

 

対面の占い、インタビューの仕事を通じて感じた「人の話を、本当に全力で聞く」難しさ

私はライターとして占いの記事を書いていますが、これは、個人の占いの現場で占いをするのとは、大きく異なります。なにが違うかというと「占いを求める人自身の話を、聞くことができるかどうか」という点です。

 

占いとカウンセリングは似ている、と言う方がいます。「心理占星術」というジャンルでは、カウンセリングにかなり近いことをする方々もいるようです。すなわち、クライアントの話をとにかくじっくり聞く、ということです。もし、本当の意味で「クライアントの話をとにかく聞く」ことができるなら、それはもう、カウンセリングに限りなく近い行為と言えると思います。もちろん、そのあとに、クライアントを傷つけるような「占い」をしなければ、という前提がありますが。

 

私は、2年ほどですが、かつて対面の占いをしたことがあります。また、インタビューの仕事もやったことがあります。この2つの体験を通して思うのですが、「人の話を、本当に全力で聞く」というのは、簡単なことではありません。

相手の話を聞いているようで、つい、次に自分が言うべきことを探していたりします。相手の話の中で疑問を感じると、その先の話がうまくアタマに入らなくなることもあります。話の流れが自分の意図とずれたとき、なんとか元に戻そうとして、相手の中にある話の流れをジャマしてしまったりするのです。こうしたことは、対話の中で無意識に起こるので、あとになって「ああ、あの時はさえぎらずに、あの話をもっとただ聞けばよかったんだ」などと気がつきますが、時すでに遅し、です。

 

癒しやケアの、もっと手前で立ち止まる「占い」

振り返れば、占いを書くにあたって、どのように書くべきか、悩み続けた20年、と言っても過言ではありません。読み手がそれぞれの人生の局面にあり、それぞれの関係性の中で、それぞれの悩みを生きている、ということに、どうすれば少しでも共鳴できるのか。そんなことを、ずっと考え続けて答えの出ないまま、今に至ります。「読み手の話を直接聞くことができない」ことを、どう乗り越えればいいか、これは本当に難しいテーマです。

石井ゆかり『12星座シリーズ』。多くの人々の心にそっと寄り添う文体で、120万部を突破。

ただ、ひとつ思うことがあります。それは、読み手の心にこちらから「こういう作用を及ぼしてやろう」「癒してやろう」といったことは、不可能だし、むしろ「してはいけない」のではないか、と思うのです。「ケアしよう」「癒そう」という意図を持って書くことは、何か違う気がするのです。私が占いを書いて、それを読んだ人に「癒された」「ケアされた」と感じていただけるのは、もちろん、とてもうれしいです。書いてよかった、と思える瞬間です。ただ、自分から意図的にそうした効果を生み出そうとして書いたことはないし、書くこともできない、と思うのです。

 

占いは、癒しやケアのような効果の、もっとずっと手前で「立ち止まらなければならない」と思っています。そのために占いがある、と言ってもいいかもしれません。

 

占いは、非常に暴力的なものをはらんでいます。占い手が占われる側に「あなたはこうよ」と言ったら、それは占われる人の意識を飛び越えて、心の中に直接入って行ってしまいます。「占いを信じない」と口にする人はとてもたくさんいますが、たとえば街を歩いていて、街角に座る占い師に突然よびとめられ、「あなた、身体に気をつけなさい」と鋭く言われたら、どうでしょうか。どんなに「信じない」人でも、多少は気になるだろうと思います。占いには、そういう暴力性があるのです。

 

多くの占い手は、そのことを自覚しています。自分が何気なく言った一般論的な言葉が、相手の心に「占断」となって深く刺さり傷つけてしまった、というような怖ろしい失敗を、占いをする人は多かれ少なかれ、体験しているものではないかと思うのです。他者のために占いをする人の多くは、こうした占いの暴力的な側面、占い師の不思議な権力性に、とても自覚的です。「占い師」は社会の周縁に追いやられている存在ではあるのですが、いざ、占いを求める人と一対一で対峙した時には、一転して、強烈な権力をもってしまうのです。これは、占いというものの構造に根ざした、どうしようもない現象です。占い手が誠実かどうか、優しいかどうかとか、そういうこととは関係がないのです。

 

さらに、占われる側がその占いに手を伸ばし、内容を受けとったとき、すでにその占いは、占った側の意図とは、全く関係のないものになっています。意味合いも、指し示すこともそうです。それは、占われた側にしか分からないことなのです。これは、食べものが血肉になるのと似ています。手渡した果物が相手の身体の中で「何になるか」までは、手渡す側は感知できないのです。

ゆえに、占う上で「立ち止まる」感覚は、とても重要なのではないかと思います。相手の中になんらかの影響を及ぼそうという意識を持つことは、その意識の善悪によらず、占いというものの構造の中では、たぶん、危険なのです。

 

偶然のものごとをくっつけ、意味を与える私たち

占いは非常に古い歴史を持つジャンルで、どんな文化にもなにかしら、占い的なものがある、と言われます。どんなに科学が発達しても、人間はまだ、占いを手放すことができずにいます。占いと人間の心の結びつきには、おそらく、私たちが自覚する以上に、根深いものがあるのだろうと思います。

 

たとえば私たち人間がものごとを「わかろう」とするとき、理性は常に「ことをわけて」捉えようとします。問題を切り分け、整理し、枝葉を切り取り、自分は自分、人は人、というふうに、ものごとを切り離していきます。それが論理です。

ですが、その一方で、人間はなんでも関連づけ、くっつけたがる衝動を持っています。空の星々を見えない線で結びつけます。天気と人間をくっつけて「雨男・晴れ女」などの言い方をします。箱にお金を放り込んで「お払い=お祓い」で、清らかになったと考えます。玄関先でつまずいて青タンを作り、会社でミスをしてお客さんに叱られ、帰り道で財布を落としたら「今日は最悪の日だ」「なにかわるいものでもついているのでは」と考えます。ひとつひとつのできごとはみんな、独立した別々の事象で、全くの偶然なのに、私たちはそれらを無意識にくっつけ、まとめあげ、「これには、大きな意味がある」と考えてしまうのです。

 

人間が持つ「くっつける」衝動。占いから生まれる「自分の置き場所」

この「くっつける」発想は、非科学的であり、非理性的であり、少なくとも現代的には、ちっともマトモではありません。でも、マトモだろうとマトモでなかろうと、人間の心には確かに、そうした、はげしいほどの象徴的衝動が潜んでいて、常にものごととものごとを見えない糸でくっつけ続けているのです。マニエリスム画家として有名なアルチンボルドの、果実でできた肖像画などは、その最たるものといっていいかもしれません。人間はものごとを関連づけ、くっつけることで、ひとつの新しい世界を生み出してしまうことさえできるのです。

もし私たちが、「ものごとをくっつける」ことをやめたら、どうなるでしょうか。人生に起こる出来事は全てバラバラの偶然のパーツになり、「人生」という物語的概念そのものが、消え失せるかもしれません。すべてのものごとが、互いに結びつく「意味」と「価値」を失って、私たちは「自分」というものを、今のようには捉えられなくなってしまうのかもしれません。

 

たとえば「私は双子座です」という言い方は、この一言で、宇宙全体と自分をくっつけてくれます。「私」はもはや、この世界に放り出された無意味な存在ではなくなります。「双子座」という意味があり、用意された座席がある、と感じられます。占いは世界と私たちを、さくっとくっつけて、この世に「自分の置き場所」をくれるのです。それはもちろん、ファンタジーかもしれません。でも、生きていく上では、ファンタジーが助けになる場面も、とても多いのです。

 

占いは、人間の「くっつける」衝動の産物であり、受け皿でもあるのだろうと思います。もし占いに「ケア」の要素が含まれているのだとすれば、その辺りに秘密があるのかもしれません。であるなら、人生が意味を失わない限り、占いもまた、様々に形を変えながら、人間の文化にくっついてくるのだろうな、と思います。

Text by 石井ゆかり Illustration by Kaho Iwaya Lead & Edit by 飯嶋藍子